〔不遇のときであっても〕学ぶことを続け、常に復習する〔それは、いつの日か世に立つときのためである。〕 なんと心が浮きたつではないか。突然、友人が〔私を忘れずに〕訪ねてくれた。おう、あんなに遠いところから、なんと楽しいことではないか。他人が私の才能を知らないとしても、不満を抱かない。それが教養人というものではないか(加地伸行『論語』:51-52)
まず、「学ぶ」ことを学んでみましょう。
孔子においては道を學ぶということです。そのために詩や礼や音楽をすすめています。どちらかというと感性の教育ですね。感性は道とどうかかわるのでしょうか。そのためには道とはなにかを知る必要があります。
趙州和尚が師の南泉禅師に「如何是道」(如何なるかなこれ道)とたずねたところ、南泉の答えは「平常心是道」でした(『無門関』第十九則)。通俗的に、平常心とは日常的な不安の無い様子としてとらえられていますが、「今の様子」という意味です。今の様子は常に変化しているので、これが道だと指示することができません(したとしても言い終えるやいなや既に違う今になっている)。
したがって、道を学ぶとは、今の様子をいただくことです。窓から入ってくる風、お茶の味、去来する想い、それらはいただこうとしなくともすでにいただけています。生きようとするまえに生きてしまっています。生命はおのずからなるものであり、みずからなるものです(両方とも「自ら」と書きます)。すると、大方の予想に反して、学びは何かを「する」のではなくて、「いる」こと、つまり存在モードになることです。存在モードというと何もしないでじっとしていると想像する人もいるかもしれません。たまにはそれもいいかもしれないけど、何もしないように「する」のは存在モードではありません。おのずから動くときは動く。思うときは思う。見えるときは見える。ただそれだけです。
存在(Being)モードになることは超簡単ですが、Doingモードに慣れた現代人にとっては難しく感じるものです。そのためにこうして古典にふれたり、対話する学びも必要になります。学びは、(おのずから)直接存在モードでいることが第一義的であり、それを書籍や他者から(みずから)学ぶことが第二義的ということになります。「学びて時に之を習う」というのは、第一義的な学びをしつつ、第二義的な学びによってそれを点検する(習う)という意味になります。したがって、二つの学びは方法からして隔絶したものですが、相照らすことになります。それは「朋ありて遠方より来る」ように、というわけです。(少名子武彦)