孔子がおっしゃいました、「人格者は正しさを自分に求める。つまらない人間は正しさを他人に求める。」(へいはちろう:ちょんまげ英語日誌)
諸とは諸々、すなわちいちいちの様子すべてのことです。
すべてと言っても、いちいちの様子と言っても、「今の様子」(道)としては常に一つだけです。
君子はそれらの出来事が自分であることを知っています。迷ったとき、真理を求めるとき、気づきを得るのは最終的には己です。真理は己にある。つまり、「己に求む」は、規範倫理的には責任をとるような訳になりますが、道に即して訳すならば、道と己は別物ではないということです。
たとえば、仕事でほかの社員の落ち度なのにクレームを受けたとしましょう。己の今の様子に学ぶならば、怒っている客の様子、そしてひょっとしたらむっとしている自分の感情が体験できます。そこまで受容できたら、このことが問題になるでしょうか?(少名子武彦)