顔淵(がんえん)が仁について尋ねました。孔子はおっしゃった、「自分に打ち勝って礼の原点に立ち戻る事だ。もし一日自分を律して礼に立ち戻るならば、世界が仁の心に立ち戻るだろう。すべては自分次第なのだ。他人を責めてはいけない。」(へいはちろう:ちょんまげ英語日誌)
道を学ぶとは、己に求むことでした。己に求むことと己に克つこととどのようにつながるのでしょうか。孔子の「我なし」という言葉とも考え合わせると、自己概念についてここで整理する必要があります。自己はそれに克って制御して理想的な自分に持っていくというのなら規範倫理的解釈です。しかし、己を道として解釈するならば、己はすでに理想的で素直にそれを出していけば(己を行う)よいということになります。
そこで、己を二つに分けて整理することにしましょう。一つは「我なし」(子罕第九)と述べているように断つべき「我」です。そうした、我をなくした後に、もう一つの「己に求む」べき本来の自分があります。つまり人はダブルな〈わたし〉を生きています。手放すべき自分を自我、本来の自分を自己とここでは呼ぶことにしましょう。規範倫理的に自分をつくりあげていくような解釈に対して、自己という本来のハタラキがはじめから備わっています。産まれたときから自己として生命が作動しているが、自我の芽生えと同時に自己が隠蔽されてしまいました。
実際、赤子のときは自我はありません。生命の働きがそこに存在としてあるだけです。その生命の働きを「わたし」として対象化して自覚していません。対象化されて自覚されないのが自己の特性です。物心つくと「わたし」によって指示される自我(セルフイメージ)が芽生えます。自我は対象化された自分として自覚されるので、名誉、責任、恥、社会的役割、所有、独占などの能作を与える認知となります。つまり、自我とは想像された自己であって、自己そのものではなく、思考のなかに描かれた概念的なものです。自我は実体はないので、「我なし」です。赤子をみていると微笑ましいような心が動かされるのは、自我がなく、生命の働き(自己)がそのままあらわれているからです。物心つくようなると、自我に基づく思考によって、さまざまな計らいがなされます。これに対して、自己(命)のもっとも顕著な特徴は、主体らしきものが対象化されない(我なし)、ということです。(少名子武彦)