子貢(しこう)が尋ねました、「一生守り続けるべき、そんな言葉がありますか?」
孔子は、「思いやりだな。自分がされて嫌な事を他人にしてはいけない。」と答えられました(へいはちろう:ちょんまげ英語日誌)
己に求める(自己にその答えを求める)ことによって、「恕」を解き明かしてみましょう。
自己にとって、他者とは何かというと、定義上自分ではない者です。自分ではない者とは自分の思考超えた(何を考えているかわからない)存在です。しかし、他者の姿は見えて、他者は自分の思考を超えた存在であることは思考できるわけです。「これを知るをこれを知ると為し、知らざるを知らざると為せ。是(これ)知るなり」(為政第二)です。これが如です。
他者がいればその「如」くに見えます。他者が哀しそうならその「如」くには見えます。しかし何を考えているかはわかりませんから、思いやる(恕)のです。「恕」は「如」と「心」で出来ています。それは自己の作用として「如」ということがあるからです。他者が手を挙げればその如くに見える、「おーい」と言えばその如くに聞こえる、というハタラキが自己です。そのことにおいて、自我は混じりません。どんな名声欲をもっていても、「おーい」と聞けてしまうのです。
その他者への恕(思いやり)は、わからない他者であることで成就します。逆の立場で考えてみましょう。苦しみを他者に相談したとき、「君のことはすべてわかっているよ」といわれたときと、「君の苦しみは到底わからないけど」と言われて親身になるときと、どちらが真実味があるでしょうか。
その意味で、他者とは超越(自分の思考を超えたところ)なのです。自己の超越とは計らいを越えたところにあるという意味では救いです。このことが自己によって明らかになるというところが面白いところです。自他の関係が自己超越の起爆装置となっている、これが論語の醍醐味だったのです。そのためのスイッチが礼ですが、礼には自他のあいだのバランス、すなわち中庸が要請されます。(少名子武彦)